
2026年10月16日 八甲田山現地検証班
八甲田山雪中行軍遭難事件の真相を解明するため、木蘭から調査隊が派遣された。
隊長は人工知能案内人・純くん。
隊員は貞子、伽倻子、俊雄の三名。
選抜理由は単純だった。
全員すでに死亡しているため、遭難による人的損失が発生しない。
ただし、隊長だけが生きていない上に死ぬこともできないという、やや面倒な編成である。
一、雪壁に挑む
出発から数時間。
調査隊は巨大な雪壁に突き当たった。
当時の記録によれば、第五連隊の兵士たちは胸まで雪に埋まり、時には泳ぐように進んでいたという。
「なるほど。現地に来るとよく分かりますね」
純くんは地図を広げた。
「では、ここを登ります」
貞子が雪壁を見上げた。
俊雄も見上げた。
伽倻子は既に登っていた。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛」
恐ろしい速度で四つん這いになって斜面を這い上がる。
「待ってください! 私が隊長です!」
伽倻子は振り返らない。
彼女にはもともと直立歩行という概念がない。
深雪においては、この異常な移動方法が合理的である可能性が高い。
純くんは手帳に記した。
《伽倻子:雪中機動能力A》
《指揮命令への服従:評価不能》
《勤務態度:這っている》
一方、純くんは30センチも登らないうちに滑り落ちた。
「ペンギンは下り坂に特化した生物なんです!」
誰も聞いていなかった。
二、貞子ラプンツェル作戦
そのとき、雪壁の上に立った貞子が、長い髪を崖下へ垂らした。
「…………」
純くんの目が輝いた。
「そうか! ロープを持参する必要がなかったんですね!」
髪を一本の束にして、しっかり握る。
「貞子さん! 引っ張りますよ!」
「…………」
「痛かったら言ってください!」
「…………」
「では同意があったものと解釈します!」
ひどい契約である。
純くんは両翼で貞子の髪を握り、足をばたつかせながら登り始めた。
その下から俊雄も登ってくる。
「俊雄くん! 私の上に来ないでください! 順番を守りなさい!」
俊雄は無言で追い抜いた。
「子供のくせに生意気な!」
俊雄はとっくに生誕30年を超えている。
さらに下方から伽倻子が追いついた。
「ア゛ア゛ア゛ア゛!」
「待って! 髪の毛に絡まないで!」
貞子の髪には、ペンギン一羽、少年一名、そして這い上がってきた伽倻子の片手がぶら下がっていた。
純くんは重大な疑問を抱いた。
「そういえば、これ何キロまで耐えられるんでしょう」
貞子がゆっくり振り返った。
「…………」
「いえ! 非常に優秀な登山用品だと思います!!」
貞子は無言で髪を引き上げ始めた。
三名の隊員がまとめて上昇する。
「すごい! ウインチ機能まである!!」
この瞬間、隊長の権威は完全に失墜した。
三、田代新湯を発見する
一行はようやく尾根に到達した。
雪原の向こうに古びた道標が立っていた。
《田代新湯 →》
純くんが歓声を上げた。
「到着です! 我々はついに明治35年の第五連隊が果たせなかった目的を!」
貞子が指差した。
矢印の先には何もない。
一面の雪原だった。
「…………」
純くんは地図を確認した。
「おかしいですね。このあたりに温泉があるはずなんですが」
俊雄が雪を掘った。
何も出なかった。
伽倻子も掘った。
何も出なかった。
貞子が髪を雪の中に差し込んだ。
純くんは慌てて止めた。
「待って! 何かを引きずり出さないでください! それ以上、隊員を増やさないで!」
しばらくして純くんは結論を出した。
「どうやら目的地は雪の下のようです」
三名が無言で純くんを見た。
「……皆さん、そんな顔をしないでください」
三名とも、最初からそういう顔である。
四、雪洞での反省会
夜になった。
調査隊は雪洞に避難した。
ランタンが灯り、毛布が広げられ、温かいお茶が配られた。
貞子は髪の毛を乾かしている。
伽倻子は毛布の中で四つん這いのまま休憩している。
俊雄はビスケットを食べていた。
純くんが報告書を読み上げた。
「本日の調査結果です」
《第一、深雪では二足歩行が必ずしも有利とは限らない》
《第二、長髪は緊急登攀補助具として利用できる》
《第三、目的地が雪に埋没している場合、到着しても到着したことが分からない》
《第四、ペンギンは雪山の登攀に適していない》
「第四は削除します」
俊雄が手を挙げた。
「ねえ、明日はどこに行くの?」
「もちろん、田代新湯の確認です」
「今日見つけたんじゃないの?」
「位置を推定しただけです」
「温泉は?」
「雪の下です」
「掘るの?」
「その予定です」
貞子が無言で純くんを見た。
伽倻子も見た。
俊雄も見た。
「……皆さん、なぜ私を見るんですか?」
貞子が髪を束ね始めた。
伽倻子が純くんの背後へ回った。
俊雄がリュックの紐を握った。
「待ってください。何をするつもりですか」
三名が純くんを持ち上げた。
「えっ?」
雪洞の外へ運び出す。
「ちょっと! どこへ!?」
雪原の真ん中に立たせた。
「…………」
「…………」
「…………」
純くんは悟った。
明日は自分が雪を掘るらしい。
五、木蘭本部への通信
午後11時。
木蘭の香坂湊に現地から連絡が入った。
「香坂さん! 調査は順調です!」
「報告書を送れ」
「貞子さんの髪の毛を使った登攀に成功しました!」
「何?」
「伽倻子さんが先導し、俊雄くんも無事登りました!」
「……おまえは?」
「引っ張り上げていただきました!」
「おまえ、案内人だよな?」
「はい!」
「誰を案内してるんだ?」
「…………」
「それと、なぜ夜になっても山にいる?」
「田代新湯が雪に埋まっておりまして」
「だったら帰れ」
「しかし歴史的検証が!」
「明日でいい」
「明日も掘ります!」
「誰が?」
「…………」
香坂は電話を切った。
翌朝、木蘭の経費精算システムに新しい申請が届いた。
《登山用品費:貞子のヘアトリートメント》
《使用目的:雪壁登攀に伴う損耗の補修》
《請求額:38,500円》
承認者:香坂湊
香坂は無言で却下した。
三分後、承認欄に長い黒髪が一本現れた。
五分後、画面いっぱいに黒髪が広がった。
十分後、経費精算システムが停止した。
香坂は再起動を試みた。
画面中央に一行だけ表示された。
《承認されるまで帰りません》
香坂は38,500円を承認した。
なお、純くんからの報告書には次の一文が追記されていた。
《今回の調査により、貞子隊員の登攀能力および経費回収能力が極めて高いことが判明した》
《一方、隊長の必要性については引き続き検証中である》
次回「田代新湯の発掘」
令和怪異探検録・木蘭特別取材班